■石数寄者達との出会いの旅 決して不変ではない石に、永遠なる歴史を託した先人の足跡をたどる
緑教育研修副委員長 荒川昭男

第五話アナトリアの石数寄者達

六.アナトリアの花十勝
私達を乗せたバスは、緑が生い茂る一本道を走っている。前を行く幌をつけた大型の軍用ジープには、回転式機関銃が装着されており、兵士が一人取り付いて忙しなく回転させている。ドライバーの横に座る私は、その銃口がこちらに向けられるたびに、暴発でもしないかと不安になり、手で払いのけたい衝動に駆られた。幌の中には、他に4〜5人の兵士が乗っているが、皆髭を蓄えた古参兵らしい精悍な顔をしている。その隙のない面構えに臨場感が増幅される。

アニの遺跡に着く前にジープは消えた。
途中のトルコ軍基地に入るのを、安堵の思いで確認した。
アニの遺跡の北東側は、狭い谷川を挟んでソ連邦アルメニア。国境線に沿って遺跡は広がっていた。国境方向にカメラを向けると、アルメニアの監視塔から警告の連絡が来るらしい。「国境にカメラを向けるな」と現地ガイドは言う。遺跡に入りまず目にしたものは、建物の半分が失われているドーム。戦乱で破壊されたのか、または地震なのか。理由はわからないが、よくぞこれで立っていると感心する。監視塔や、ガイドに気付かれないよう腹ばいになり、周囲を気にしながらシャッターを押す。
アニ遺跡の片側が崩壊した半円の
ドームは何故か堂々としていた
屋根が抜け落ちた教会と散在している石材 川を挟んで左がトルコ右がアルメニア
かつてアニ遺跡は両方に広がっていた
アルメニアのなだらかな地模様を背景に、損傷した幾つかの建物と、崩壊した建物の石材が、草に覆われた広大なアニの遺跡に散在している。遺跡は静か過ぎるほど静かだ。
この静寂が支配する世界に立っていると妙な思いにかられてくる。

半円で立っているドームも、天井が抜け落ち青空が見える正十字の教会も、入り口のアーチだけが原形を留めている瓦解寸前の建物も、広大な遺跡に散在する莫大な量の石材も、芸術として鑑賞されることに満足しているように思えてきた。

これが廃墟の美というものなのか。いや、そんなありきたりの台詞など通用しない異次元の世界。

4世紀に世界で初めてキリスト教が民族宗教となったアルメニア、したがって、千の教会がアニに建っていたという伝えは事実だと思う。莫大な量の、石材を積み上げた大勢の石工や住民たちが、この場所にいたことも確かであろう。その当時の情景をイメージしようとしても、広さと静けさと目の前の光景が邪魔をする。先程から足元にいる毒々しい蛇も、廃墟となったから住みついたのではなく、もともとここの主だったのではないか。悠然とあわてることもなく、移動していく蛇を眺めていると、歴史的事実とシュルレアリスムな芸術的光景が、とめどなく絡み合っていく。このように心理状態が浮遊すると、人は大胆になるようだ。私はかまうものかと国境に向かって、バチバチとシャッターをきり始めた。

バスはまだ異次元の余韻を背負っている私を乗せて、黒海とペルシャを結ぶシルクドードの要衝エルズルムに向かった。

道の両側は松林。行き交う車は少ない。エルズルムの手前、東70キロのホランサンあたりにさしかかったとき、突然私は「黒曜石だ」と無意識に叫んだ。バスの前方右側の斜面に黒い帯状の層を見つけた。
どうやら異次元から抜け出し、いつの間にか正気に戻っていたようだ。トルコ人のドライバーは、私の日本語を理解したかのように、黒い層を見上げる場所まで来るとバスを停めた。無言でバスから降りたドライバーは、黒い層にむかって前のめりになって斜面を登って行く。すかさず訳も分からず私もあとに続いた。

黒曜石の前はテラスになっており、無数の石塊が散らばっていた。
この場所で最近何者かが黒曜石を採取していたようだ。トルコ東部から、黒曜石が石器の材料として、世界最古の文明と言われているメソポタミアに、運ばれていたと古代オリエントの歴史書に記されている。ここに間違いないと勝手に確信した。メソポタミア文明を築きあげた人々は、獣の皮を剥ぐ石刃や、石槍や矢じりをこの黒曜石でつくっていたのか。黒曜石を前に段々と興奮してきた私は、ドライバーの行為を見て更に目を丸くした。大人の頭ほどの黒曜石の塊を、バスに向かって無表情に投げ落としているのだ。それを下にいるアシスタント・ドライバーが、これまた義務的にバスのトランクに投げ入れている。私はこの行為をしばらく呆然と見ていたが、我に返ったときには、適当な大きさの石を次々と衣類のポケットに詰め込んでいた。中でも重さ2キロほどの石は、全体が黒と赤の斑模様になっている。

黒曜石は、石英安山岩と流紋岩の溶岩が、結晶が成長する前に、急激に冷却凝固した一種のガラスである。日本でも長野の和田峠、北海道の十勝、伊豆諸島、九州の島々と約70ヵ所の産地が確認されているが、十勝では、赤い斑模様の黒曜石を「花十勝」と呼んでいる。再びエルズルムに向かって走りだした車内で、ドライバーは黒曜石をどうするのかと現地ガイドに尋ねた。飾り物などを加工する土産物屋に売るとの返事。行きがけの駄賃、つまり小遣いかせぎらしい。その話を聞きながら、シルクロードの遥か東の果てに行くことになってしまった膝の上の花十勝に視線を落とした。
七.ガーゴイル
振り返ってみると、15日間にわたるアナトリアのたびで、様々な出会いがあった。

ネムルートの墳墓、古戦場と兵士の墓。ヴァン湖に浮かぶ弧舟のようなアルメニア教会。日本の被爆を知っていた僻村で出会ったクルド人。シュールな雰囲気が支配するアニの遺跡。断崖の中腹にへばりついているようなスメラの僧院。

他にも記憶に残っているものがある。シリアとの国境に近い、旧約聖書に登場するハラン村の民家は興味深かった。石灰岩のコバを竹の子のように積み上げ、表面は藁を混ぜた泥土で塗りあげている。夏は最高気温が、50度にもなる過酷な土地で、風土に適応した夏涼しく、冬は暖かい家。中に入れてもらうと、外の暑さが嘘のように消えた。

樹木の話だが、ピスタチオの木を初めて見た。まだ青い小さな実を房状につけていた。これからは、ピスタチオの面倒な殻をむく度に、アメリカデイゴに似た葉と、柑橘系の樹形を思い出すことだろう。

ドゥバヤジットのイサクパシャ宮殿は、郊外の小高い山の上から、アナトリアの大地を見つめていた。17世紀に、この辺りを治めていたクルドの王が建てた、部屋数が366もあるドームとミナレット(尖塔)が目立つ宮殿。イラン、イラク戦争では、主が追放され廃墟になっていた宮殿で、イラン軍が野営をしていたとのこと。宮殿の軒からアナトリアの上空に、槍のように突き出ているガーゴイル(怪獣形吐水樋)には、まだ勢いが残っていた。

クルド語を話すことさえ禁じられている厳しい現実が存在する限り、クルドの末裔たちがこの宮殿に戻ることはないだろうと思った。

王宮から突き出た木製の
ガーゴイルとアナトリアの大地


高さ270の絶壁に造築されたスメラ修道院
ロシアの侵入によって廃墟となる
18世紀末まではクルド人も
このような王宮で生活をしていた
強い日差しを充分に受けた
ピスタチオの葉は輝いていた
奇妙な外観だが快適な室内風土
に適応した住居
八.蘇ったフレスコ画

オスマントルコの時代に漆喰で塗り隠された内壁のフレスコ画
アナトリアを巡る最後の町、黒海沿岸の港町トラブゾン。果たしてどのような彩をしているのだろう。と期待していたが、海は決して黒くはなかった。だからと言って、目が覚めるような青でもなければ、引き込まれそうな群青とも違った。ぼやけた静かな海。それが私の黒海を見た感想である。一体この海は生きているのだろうか。と言うよりも、怒ることがあるのだろうか。などと思いながらしばらく見つめていた。そんな黒海に背を向けて、海際に建つビザンチン様式の教会に視線を移した。教会の印象は、ひとことで言ってサッパリとしている。教会の名はアヤソフィア。

サッパリとの表現は、教会の外観と、眺めている私自身の心の内をも言い表している。今の私は、風呂から上がったときのように、心の底からくつろいでいる。
眺めている教会も、湯上りの女性のように、化粧なしで輝いている。余計な装飾がないのだ。アヤソフィアは、第4回十字軍に当時のコンスタンチィノープル(現在のイスタンブール)から追われ、トラブゾンに逃れてきたコムネノス家が、12世紀に建てたと言われている。ビザンチン様式の建物は、イスラムの影響を受けていると言われているが、このアヤソフィアも例外ではない。八つの縦長の窓を持つ八角形の円蓋(えんがい)と、その円蓋を中心とした正十字の建築。その外観に華美な装飾は一切ない。簡素とか簡潔などの言葉がぴったりの建物。建物の内壁に描かれているフレスコ画も実に素晴らしい。

最後の晩餐や聖母マリアなどの絵は、ところどころ欠け落ちて下地の石積みが面を出しているが、しっとりと落ち着いた色彩に、六百年の時代の流れは感じられない。

ビザンチンの中心であったイスタンブールが、イスラムのオスマントルコによって、1453年に占領された。その8年後に、トラブゾンもオスマントルコに併合され、ビザンチン帝国(東ローマ帝国)は完全に滅亡した。その変換した歴史を境に、キリスト教会のアヤソフィアは、イスラム教のモスクに変えられた。偶像崇拝を嫌うイスラムの教えに従い、内壁のフレスコ画は漆喰で塗りつぶされた。しかし建物本体は、大きな破壊や改修を免れたようだ。
トルコにはこのような例が幾つかある。イスタンブールのアヤソフィアやカーリエ博物館などが同じである。

今回アナトリアの旅で、様々な歴史的建造物を数多く見てきた。その多くは、地震などの自然の力によって、あるいは遥か彼方から移動してきた他民族の侵奪などで、崩壊したり破壊されたりした姿をさらしていた。その歴史が残した痕跡は、私を時々洞察力、観察力共に不可能な状態にした。説明しがたい何か重いものを感じたときもある。

更に加えて、クルドゲリラの出没地域の移動や、検問所でのトルコ軍のチェック、軍事基地や国境付近での写真撮影の制約。その心理的ストレスから解放され、今アヤソフィアをのんびりとした気持ちで眺めている。歴史の嵐を受けたものが持つ嘆きのようなものは、アヤソフィアからは感じられない。今まで張りつめていた緊張感から解放された結果、私の神経が鈍化してしまい、嘆きを聞きもらしてしまったからではない。
奢らず、飾らず、怒らずの温厚な姿を誕生から現在に至るまで、六百年の間変えることなく維持し続けられたからだと思う。

正十字の、どこにでもありそうな極めて単純な切石積みの教会に、これほどまで魅力を感じるのは、高度な技量を持った設計者と、経験豊かな石工の存在があったからであろう。私が庭修業を終え独立して間もない頃、老舗の石屋の親父さんが、単純に見える四角の織部燈篭が、最も難しいと言っていたことが思い出された。


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